信仰と狂気

富士山を見に行ったときに、町営の福祉施設にある、公衆浴場を利用した。きちんとした温泉もあり、保養所にもなっているところだ。こういうところには何人か常連がいて、そこで働いている人たちと仲良くなったりしてよいコミュニティを築いている場合が多い。なので、私の一行が話しかけられたときも、そういうフランクなコミュニケーションの一環だと思っていた。

「あなたたちどこから来たの?」「東京です」「そうよね、やっぱり。顔で分かるもの」

そんなものかと思っていたが、後から考えれば、このような田舎の保養施設を訪れる若者といえば東京から貧乏旅行か何かで来た学生くらいものだろう。普通の大人ならまともな旅館を利用する。話していくうちに、東京の話になり、東京や大阪の水は不味いという話になり、石原都知事の政治姿勢の話になった。彼女はやたらに都知事を批判しているが、ババァ発言のこともあるのだろうと思って聞き流していた*1。ここまではよかった。

ここで彼女は、地元に建設計画が上がっているという競艇の場外券場の話を始め、

  • ギャンブルは怪しからん
  • 週末は教会で礼拝をすべきだ
  • 人間は全て子供のように無垢であるべきだ

ということを柔らかく細かく噛み砕いて、聖書まで引用して長々と時間をかけて主張した。その場で私と共に彼女の相手をしていたMは銀玉ギャンブルが大好物なので、そのことを指摘したら彼女は無視をして自分の話を続けた。このような寂れた地方自治体に、このような立派な福祉施設をどうやって建設するのか、その元手がどこから出ているのか、税金だけで本当に全て賄えると思っているのかなど、Mはその辺りのことを小一時間問い詰めたいところだったそうだが、後で聞くとこのときに匙を投げたらしい。

続いて彼女は、私に「何か信じている宗教はあるか?」ということを尋ねてきた。私は答えに窮し、破れかぶれに、私の家は代々が真宗*2ですと答えたところ、誰か偉い人の言葉で心に残ったことはあるか、と重ねて尋ねてきた。私は更に答えに窮してしまったが、そもそも仏教は言葉を無駄に重ねるものではないことを彼女は分かっていたのだろうか。とにかく、答えに窮した私は虎の子の言葉を苦し紛れに発してしまった。「私は進化論の立場をとっています」と。

それが彼女の癪に障ったらしく(或いは潰し甲斐があるの感じたのか)、

「あなた進化論を信じている*3の? この服も、この机も、この空気も、こんな素晴らしいものが勝手にできるとでもいうのですか? 神様が全てお造りになったのですくぁwせdrfthじこlp;
全て聖書に書いてあるんですよ? 神様がお書きになった聖書が間違っているとでもいうのですか?」

と、ついに本性を現した。私は無難な返答として「いやあ、聖書は人が書いたものでしょう」とだけ言ったのだが、それについては返答するに値しないと思ったのか「聖書は世界で一番売れている、ベストセラーなんですのよqあwせdrftgy」と言い出した。そう、彼女は本物の宗教者であり、本物の狂信者でもあるのだ*4

「宗教は阿片である」とは言うが、今までこの目で確認したことはなかった。私は初めて狂信者(いわゆる気違い)を目の当たりにしたのである。瞳が異様に輝いていたが、それはそういうことなのだろう。宗教は世界観を与え、内なる救済と信じる仲間を与えるものである。彼女は孤独に暮らし、僅かな狂信者の仲間と慰め合っているのだろうと考えると、人間はこうも救われないものなのかと、虚無感に包まれずにはいられないが、同時に、彼女に言いたい放題を言わせてしまったことに怒りを覚えている。なぜ全力を以って論駁しなかったのかが悔やまれる。なぜ、ベストを尽くさないのか。それはやはり虚無感のせいなのだろう。

次回、彼女と対決するときは、是非とも競艇を楽しんだその足で保養所に向かいたいところだ。FSM教に逆に勧誘してやるか、または、無神論に勧誘してやりたいところである。

*1:私は都知事に票を入れたが(笑)

*2:浄土真宗

*3:科学を信じるという語法ですが、…

*4:別の友人はエ○バの証人だと言っていたが