ふと思いついたので東北というか仙台周辺を旅行してきました。どちらかというと暗くなりがちな話題について長々と書いた旅行記なので、興味のない読者は結論だけでも知っておいてもらいたい:
- わたしたちは現実を知って、それでも希望を持って暮らさなければならない
- 東北いいとこ一度は行こうよ、一度といわず何度でも
興味がなくても他人事ではないはずで、まあこのことだけは知っておいてください。といっても、わたし一人で急に行って何かが分かるわけでもなく、@hiroki_niinuma氏の協力を得ることに大成功したおかげで様々なところを見て回ることができ、東北大震災について真剣に考えるよい機会となりました。本当にありがとうございました。
すし哲の特上握り。やはり寿司は港町に限る
そもそも動機
阪神大震災のときは僕は中学2年生。岡山に住んでいたので震度4程度で済んだが神戸にいた祖父母は北区にいたので無事で、本棚の本が全部落ちてくるとかテレビ(ブラウン管だからあたったら死ぬ)が落ちてくる程度で済んだ。が、三宮など街の方の被害は大きく、祖父が「これは見とかなあかん」と言ったので3月の春休みを利用して神戸市内をうろうろしていた。が、2ヶ月も経っていたので家々の再建もかなり進んでおり*1、生々しい惨状を見るには至らなかった。もちろん見ないで済むに越したことはないのだが。
そういうわけで、妻子は所用で実家に戻っている。というわけで丁度、人生で東北地方は一度たりとも行ったことがなかったしで、かつ、まだ震災の爪痕は大きく残っているところを見たくなった。昨年の今頃であれば鉄火場だったろうからさすがに物見遊山することはできないが、もう1年も経っているので大丈夫だろう。しかも、東京に住んでいる限りは、マスコミなどで取り上げられはするものの震災という単語は垢まみれになっており、政治的な文脈か時候の挨拶でしか使われないものになってしまった。つまり政治の問題になりつつあるということだ。つまりこれは忘れられる前兆なのである。もちろん、記録や記憶には残るだろうが当事者ではなくなるということだ。戦前はどうか知らないが、戦後の日本人はどうも歴史的な出来事に直面した後に、それを自分たちの歴史として消化・吸収する能力がないように思う。
そこで、目的を設定して、現地在住で事情に詳しい団長にもろもろの案内を頼むことができた。超ラッキー。
5/3 出発〜観光
いきなり停電で東北新幹線の出発が遅れる。やっぱり原p(自粛)まあ2時間も乗っていれば仙台に着く。仙石線のホームでいきなりウッとなる。
これがどういうことだかお分かりだろうか。津波の被害地域が仙台に到着して10分で大体分かってしまった。東京に例えると京葉線と京浜東北線の駅の半分くらいが不通(代替バスはあるけど)。まあしかしさも当然のように駅の案内に出ていて、ああこちらは日常の平和を取り戻そうとしているのだなと分かる。東京で聞くどんな言葉よりも重い。旅はこんな感じで始まるが、途中は結構楽しかったのでここで読むのを諦めないでいただきたい。
さて多賀城駅にて団長と待ち合わせをしてすし哲で東北の海の幸をいただく。冒頭の写真である。団長によれば仙台で三本の指に入る味なのだそうだ。とろ、鯛、うに、…どれもうますぎる。青魚も他に注文したのだが、これがまた絶品で、生姜のおろしが乗っていたのだがこれが不要なくらいに新鮮で全くくさみがなかった。これも、赤貝と煮だこが団長の推薦でもあったのでいただく。赤貝は写真に残すことができた。赤貝の味は淡旨でなんとも形容しがたいので、是非店にいって食すことをお勧めする。煮だこは写真のことをさっぱり忘れて食べてしまったが、写真ではその味や風味はうまく伝えられないと思ったので是非これも店で食すことをお勧めする。帰り際に気付いたが仙台駅にも支店があるようなので、足がない人はそちらでもよいかもしれない。
さてその後はせっかくなので東北…なら酒だろう、ということで大山酒店というところにお伺いする。いくらか話をして高い酒を買う。どうやら静岡の酒がメインだったがまあよかろう。これでは東北の酒蔵は潤わないがうまいというのだから仕方がない。次は瑞巌寺に行くその途上の国道45号線の陸側の道端に漁船があった。おそらく持ち主が亡くなっていて処分のしようがないのだろうとのこと。さて瑞巌寺に着く直前あたりから雨が激しくなってくる。家にいれば雨で行動を変えもするが、こういうときに雨が止むのを待っていては何もできないので予定通り瑞巌寺を見てまわる。震災で本堂が破損したそうで修復工事中であった。他にもさまざまな名物があるので是非御覧じていただきたい。どうも岩場を切りくずした土地らしく、法身窟を始めとして敦煌の莫高窟のような趣が正門入ってすぐ右側からすこし続く。他にも、日常の生活空間が岩場に融合した様がどうにも私の心をくすぐった。
5/3 閖上
瑞巌寺を回り終えたわたしたちは、団長の案内で閖上に向かった。地震がおきたときに事故でちょうど渋滞していた閖上交差点を通って閖上中学校に向かった。閖上交差点の様子(津波の様子, after)中学校の時計は2:46で止まっており花や飲み物が沢山供えられていた。雨でも人が何人か来ていた。古くない建物が廃墟になっていた。一年前まで使われていた建物が今でも修復されず廃墟のままになっている、そういう光景がいくつもあった。学校もそうだし、津波に流されずに残った家もほとんど人がおらず、割れたガラス戸からカーテンが覗いて風雨に吹かれていた。また、この辺りは360°見回しても田圃ばかりなのに道端にやはり漁船が転がっている。車で1時間ほど移動しただけなのにそういう船が4艘か5艘ほど写真に残っている。あとは、遠くから見てもそれと分かるような巨大な瓦礫の山がいくつもあった。近くに寄ればよるほど大きくなっていく。たとえば今ダイニングにある椅子や柱とかそういったものが巨大な山になっている様を見ることができた。
さて、小さな丘の上の神社に登る。
残念ながらこの悪天候なので見通しは非常に悪いが、団長によれば、晴れていればここから津波の被害地域を一望できるそうだ。つまり見渡す限り何もない光景が続くのである。これまでずっと人が住んできた土地であるにも関わらずそれが一日にして失われたことを実感できるという。地域の小さな神社で、現地でGPSを使ったときはMapsで地名が出ていたのだが失念してしまった。情けない。
5/3 夜
さて夜は牛タンである。この後は謎の温泉郷、夢実の国で入浴して雨を流し、団長の家に戻って酒を飲んで寝た。雀士諸君、団長の家には全自動雀卓とトレーニングジムがある。勇士を募ってまた行かなければならない。
5/4 朝
団長の家にて朝食を相伴に預かり、8時半過ぎに出発。団長の家は台地の上にあったので無事であったが地元も被害を受けた地域はあり、そこも熊手で掃いたかのようになっており痛ましい。この辺りは標高が高い地区が多く、家屋は無事なのが多いようにみえる。beforeを知らないのでなんともいい難いが、地形が変わっているところもいくつかあり、20世紀のうちに月面着陸を果たしたとは思えない。
5/4 西行戻しの松〜大高森
雨はいちおう止んでおり空気がとても澄んでいる。4月にAlmadenに行った折のさわやかな空気と似ていた。さてまずは団長おすすめの西行戻しの松。西行法師が東大寺再建の布施を募る全国行脚で訪れた際に「この先にはもっと強いヤツがいるぜ」と通りがかりのアンちゃんに言われてすごすご引き返したという伝説のある土地である。松島を遠景にした桜がとても見事なのだそうだが…生憎の連日の雨で桜も全て散っていた。シーズンに来ればこんな風にとてもきれいなんだそうだ。また来年リベンジできたらいいな。朝九時に来ただけあってまだ空いていたが、私達がいるわずか10分の間にどんどん観光客が増えていた。
大高森は東松島市にある標高106mの小山で、松島四景のひとつなのだそうだ。100mの山を登ること15分弱。日差しはまだないものの気温は少しずつ上がり空気は澄んでいる。遠くまでよく見渡すことができた。
雨上がりの山道ということもあり滑りやすかったが、天気のよい日にはちょうどよい運動になるだろう。足元が悪いので気をつけて。
5/4 東松島市
さて大高森に行くためには松島の北側をぐるっと回らなければならない。その途中で東松島市を通過する。地図をみれば分かるが、遮るものもなく津波の被害がどうみても大きいところ。陸地に海水が入り込み、そのまま堤防でせき止められてしまって海になってしまったり。
また、陸にあったフォークリフトが移動して海中に没している。
たまたまこのフォークリフトだけが顔を出していて、水底には多くの瓦礫が沈んでいるのだろうなと容易に想像できる。また、この帰りには野蒜海水浴場に立ち寄った。満潮にさしかかる時間帯で波も強く、4〜5mはあっただろうか、波が立ち上がったときに陸から吹き降ろす風とぶつかってF-18のようなジェットエンジンをもった航空機の音のようで非常に恐ろしかった。学生の頃に沖縄の基地で聞いた音と同じだった。
5/4 女川・女川原発
さて続いて、我々は女川に向かった。途中通過した石巻市の被害地域の光景も壮絶であったが、二日目ともなると若干見慣れてしまったが、むしろそこで「頑張ろう」といった横断幕が多く張られているのに眼がいくようになった。ある人間を倒すためには希望を奪えばよいとはよく言われているば、希望さえあれば人間は生きていけるのだとも思って心強い限りである。絶望を知ってこそ希望はより強く浮き立つのである。
女川はあの地震と津波でも無事に事故を起こさなかった原発と、その原発故に潤っていながら津波で甚大な被害を受けた街だ。女川町地域医療センターとは、都会から遠く離れた港町には似つかわしくない大きな総合病院である。どうしてこれが建ったのかは言うまでもないが、これが標高20mほどの高台にあるおかげで、津波の被害を免れている。麓にも街があったのだと想像されるのだが、私が行ったときは熊手で掃いたように何もなかった。
女川sweep写真(フォトライフ…)
女川市はこれを歴史として消化しようという意思があるらしく、津波でひっくりかえった鉄筋コンクリートのビルを保存しようとしていた。
「鉄筋コンクリートのビル写真」「残骸」
ビルの底面、床下がこうなっているなんてどうにも想像できなかったし、テレビで見てはいたけど圧迫される。そしてビルの跡かアスファルトが剥がれた跡かは知らないが水がたまっており、そこにゴミがたまっているのだ。おそらく瓦礫の残りなのだが、普段なら生活感を表現するはずのアイテムが別のものを表現している。ここは有名な場所らしく、高台にある病院には観光バスや家族連れなどが来ていた。別に写真を撮ったりというわけではないが、あの高台からはこのビルの底は見えない。俯瞰するのではなく、人間の目の高さから見るからこそ、街だった場所で遠くが見渡せることの違和感は大きい。
次に我々は原発の方に向かった。途中の入江にいくつも漁村があり、それぞれ対になって近くの高台に仮設住宅があった。漁船を失った彼らはどうするのだろうか。女川原発がどうして無事だったかは有名な話であるからよいとして、車中で団長と話したまあ原発にまつわる暗い話はここでは省いておく。結局、原発の煙突が少し見えたので満足した。やはりこういったものはうまく隠れるように建設するものなのだそうだ。
【事故で止めるか、みんなでとめるか】
原発について多くを語るのはやめておくが、私は科学技術とそれを営む人類の知性を信じたいと思っている。それとも腐海が蒼き清浄な地を齎してからは巨神兵の光は必要なくなってしまうのだろうか…?(中二か
5/4 多賀城
最後に、多賀城址に寄ってもらった。そこにあるものはどうということはない、国分寺跡や鬼ノ城址と対して変わらないのだがこれが東北の歴史の始点だと勝手に思っていたので。高台にあり、天気がよければ海の方までよく見えただろう。東北本線と仙石線が近くを通っていることからも分かるように交通の要衝だったはずだ。
さて団長とはここでお別れをした。無理を行っていろいろなところを回ってもらって感謝のことこの上ない。仙石線で仙台に向かって青葉城でも行こうとしたが、あおば通の駅を降りたところ通り雨に振られそうだったので断念し、夕食を食べて仙台駅でずっとひとりハッカソンをしていた。こうして私の旅は終わった。
まとめ
当初の目的は果たせたと思う。1年くらいではとてもじゃないが元通りになり得ないことを体感できたし、割と金も遣った。直前で思い立ったのと一人だったので高級旅館に泊まれなかったのでお金を落としたとはなかなか言えないが、現地の食を堪能できたことは非常によかった。なにより電車で2,3時間のところにこういう場所があることを知れたのがよかった。時間にしてみれば名古屋や三崎港に行くのとそう変わらない。わたしはもともと中国の人間なので神戸や香川、金沢などは行きやすいし親しみがあったが仙台はどうしても心理的に遠く思っていた。それがなくなったのが最大の収穫かなと思う。今度は家族で来て普通に観光しようっと。
*1:ぼくは復興という言葉はあまりに政治的で嫌いです