「使い慣れた万年筆のようなものだから」

私の職場の同僚に、Emacs界隈*1でとても有名なAさんがいる。昨日の飲み会の帰途でAさんと話す機会があり、Emacsの話になった。Aさんはいつもmac上のktermEmacsを使っているので、「最近はCarbon Emacsとか出ててとても使いやすくなりましたよねぇ。そっちの方がキレイだし使いやすくないですか?」と言った。並の人ならここで「GUIなんて飾りです」なんて返すところである。
ところが、Aさんは「Cannaの辞書とかXXXというパッチ*2が当たっているんですよ。20年も使い慣れた万年筆みたいなものなんですよ。自分が慣れているものなので、もう今更変えられないんです」と言った。さらに曰く、入力が速い人は辞書の形態素区切りや変換順序まで記憶していて、それが変わると入力速度が劇的に下がるらしいのである。
なるほどツールにこだわる人は多いけど、どれも宗教論争になりがちで(苦笑)、なるほどそういうものなのかぁと感じ入った次第であった。80年代から20年も使っていれば、今更変えられないよなぁ…。
私はどちらかというとエディタなどの道具は必要最低限のカスタマイズしかしない派だ。そうでないと、mac/windows/*nix/linuxなどどんな環境でもEmacsが移植されており使えてしまう。なまじどこでも使えてしまうばかりに、デフォルト環境ばかりがあって、それら全てにカスタマイズを入れるなんてできないのである。「慣れ具合」のポータビリティが確保されないので、ことえりだろうがOfficeだろうがATOKだろうが、どのIMEでも入力できるようになってしまった。
ちなみに、ここで暴露してしまうのは失礼かもしれないが、Aさんは、社内でOffice系文書を編集せざるを得ないときは、一度Emacsにコピー&ペースト→Emacsで編集→Officeにコピー&ペーストするそうである。万年筆を使い込むとはこういうことなのかと思ったが、そんな面倒なこと私はやっていられないのでいつも直接編集である。HHK Pro2でOfficeなどの「ふつうの」ソフトウェアを使っていると、いつも右手の小指が折れそうになってしまい苦労している。
もちろん、windowsでデスクトップキーバインドを変更するソフトウェアもあるのだが、それを使って自分のデスクトップ環境がデフォルトからかけ離れてしまうことによって、「自分の慣れ具合」ポータビリティが低下するのを避けるためである。こういうところで仕事をするのは、いろいろ面倒くさいのである。それでも、「C99?なにそれ。この本に載っているもの以外はC言語じゃないから」と言いながらK&Rの第1版をすぐに毎回出してくる人がいたりしてなかなか愉快なところでもあります。

*1:だけではなく、各所で有名だけど:D

*2:なんて言ったか失念