関ヶ原の合戦について

今日の大河ドラマ「功名ヶ辻」は関ヶ原だった。東西両軍がぞれぞれ中仙道の東西から現れるのだけれども、関ヶ原で待ち伏せていた西軍が、未明に到着した東軍を取り囲むような形で開戦となる。で、今日の放送で「後世の戦略家はこの布陣を見て『西軍絶対有利だ』と評したそうです」という趣旨の解説をNHKは入れていたが、これは違う。

詳しい人には今更の話かもしれないが、包囲戦も、副線から攻める側面攻撃の一形態であって、それに対する対策としては

  1. 各個撃破(友軍が数で勝る場合)
  2. 中央突破(友軍の数が足りない場合)

がある。で、東軍は数が足りないので中央突破。これをされないためには、側面攻撃の軸となる正面の主力部隊が突破されないことが絶対に必要な条件である。だから、西軍はこの戦術を警戒すべきだったが中央は薄かった。で、東軍は中央突破して包囲網を分断、各個撃破に移行したということのようだ。

もちろん、東軍後方の毛利勢が少しも動かなかったこと、小早川勢が寝返ったことなども重要なファクターだが、これは政治の範疇である。西軍は、裏切りそうな小早川勢を近くに置いて、何もしない毛利勢をなぜあんな遠くに置いたのかは分からない。いや分からないか。

とはいえ、側面攻撃の必須条件として中央突破されないことを提示したのはリデル・ハートで、この人は20世紀の人なので、このような戦略分析が当時の人々にできるわけでもないのだけれど、NHKはもうちょっと痴的なことを解説してほしかった。大河ドラマだから仕方ないのかな。

あと、余談だけども、家康は東海道を通ってきたが、彼の子飼いの三河旗本勢は秀忠が率いていた。中仙道を通って西に向かっていた(真田幸村に足止めされていた)ので、家康の主力は温存されていたとも言えるし、主力が間に合わなかったとも言える。この辺りのことは歴史のシーソーで、もしも小早川勢が裏切らなかったら家康は息子の秀忠と合流して再戦するつもりだったのではないか。そのときこそ東西が共に後がない状況になり、初めて五分の勝負ができた気がする。