運命について

今、自分がこういう状態でここにいるというのはどういうことなのか。その疑問が解けることはなかった。今も解けてない。

どういう過程でここに至ったかは説明できるが、どういう必然があってこうなったのか。そもそも必然だったのか。いわゆる古典力学でいけば、それは全て初期状態に依存していて、私が生まれた瞬間から、というか宇宙が誕生した瞬間から、それは全て必然だったことになる。

しかし(よく言われていることだが)量子力学的な世界観からいけば、そもそも私がここにいるということ自体がよくわからない。私は観測者であるから、私が認識した瞬間に世界の波動は収束して私の脳内に情報として蓄積されているわけだけども、私自身が量子力学的な存在者だったらどうなるのだろう。他者が観測した瞬間に私自身の波動関数は収束しているわけだけども、私自身はその他者を観測したことになってしまう。私が観測した他者が観測した私が他者が観測した… …と再帰的に辿っていけばいくほどわけの分からないことになってしまう。

別のパラドックスを見れば、観測という行為はどういうことなのか。私が観測を通じて認識して情報を蓄積するということなのか。しかしその私自身が量子力学的な存在であれば、その観測→情報の蓄積という行為すらも波動関数の下で記述できるわけで、その観測は一体誰がやるのかという問題は解けない。これを解決するためには、量子力学(や相対論)が措定してきた観測者という存在そのものを解明することなしには進まず、結局は人間の知能や精神の解明なしには済まされない問題である。

これを解決する仮説として、世界の波動関数は一定の範囲内に収まるということを考えたいところだ。ただ(-∞, ∞)の枠内に収まるとか、総和が1になるとかそういう意味ではなくて。つまり、一定の間隔毎に世界の波動はいくらか収束しているのである。そのイベントを人間が行うこと=観測なのである。

つまり、何か不可逆的な過程となる量子力学演算子がかけられた場合に波束は収縮してしまい、その他の可能であった波束は存在しえなくなる瞬間が存在するのではないかと。でなければ我々は悲観的な散逸系の世界に暮らしていることになる。いわゆる多世界解釈というやつですね。いや、それが本当なら認めなくてはならないのだけど。

あ、これってなんか生物進化における<多様化→淘汰>のサイクルに似てるといえば似てるかも。以上、与太話でした。