理系と文系 再び

(2009/7/20 - これは、2005年に私が当時の自宅サーバで書いた記事の復刻版です。archive.orgだけでなくここにも残しておこうと思って転載しました)

本文

前回のエントリではなんとなく論点がずれてグダグダになっていたので、再び。別に人間を理系と文系に分割するとかそういう目的ではないので。

  • 学問的な共通点
    • どちらも、結局は学会で同業者を納得させることに尽きる。皆が相互監視によって認める事実を積み重ねることで、なるべく客観的な知識を集めていく。それが応用によって人類への利益として還元されていく。つまり文系と理系が共有しているのは、知識の共有というその一点だけである。
  • 学問的な相違点
    • まず、対象が異なる。理科系の学問(つまりScience)では人間でないもの、つまり(自然)言語によって意識や情報を共有できないものが対象とされる(動物、宇宙、人体etc.)。そういった「言葉の通じない」ものに対する知識や認識の蓄積が行われる。 文科系の学問では人間が対象となる(歴史、文学、法律etc.)。主に言語に基づく資料や調査によって、事実や解釈を発表することで認識を共有する。
  • 相違点に由来する社会的影響
    • 文科系は人間が相手だから、社会に対する経験や体験が(比較的)豊富になる。学問の対象であるところの人間は極めて非論理的な存在であるから、時に論理的な方法論では学問知が得られないことがある。或いは数値化することができない場合もある。それが思考のスキームとして固まってしまう場合も多く、そういう部分が極めて強調されて「文系は非論理的だ」というステレオタイプなレッテルが拡がっている。むしろ蔓延している。
    • e.g.中央官庁の高級官僚は極めて論理的。だから政治家や市民がなかなか踏み込めないんよね。大手商社や大手銀行なんかでもエリートはそうだと思う。

理科系は人間が相手ではなくて、数値などに基づく極めて合理的な方法論によって解釈された自然を対象とする。極めて合理的な方法論に慣れてしまってるから、不条理な社会に対する免疫がなくて、それがしばしば摩擦になってしまったりする。あるいは社会に無関心になる。これはレッテルじゃないかも(泣)。

結局、両者には方法論の違いはない(方法論の違いと文理の違いに関連は低い)。目的も同じだ。例えば進化生物学と経済学を考えてみるといい。進化生物学は実験による再現が不可能だ(今のところ)。いくつかの経済理論では極めて高等な数学理論が理論の骨格を成している。これらのを考えると、多種多様な方法論のそれぞれの違いによる分類は不可能である。というわけで、内省や観察について言及するのはナンセンスであろう。目的は同じ。対象は違う。方法論は多様ってことで。

ちなみに

私は、哲学というのは全ての学問の父だと考えている(神学を除いて)。何かを知ろうとする衝動こそがそも哲学の原動力であって、諸学問はここから派生したに過ぎない。といっても、それは近代に自然科学が自立するまでの哲学を指しているのであって、ニーチェとかウィトゲンシュタインとかはあんまり関係ないと思っているが。だから文理に分ける際に少し抵抗はあるものの、自然科学とは異なるという意味でやむを得ず文科系として分類されているという印象がある。
最先端の物理学が人間の世界(宇宙)観を頻繁に更新し、最先端の脳科学と進化生物学が人間のあり方を何度も更新している中で、従来の単純な棲み分けが許されなくなってきた。マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉 では人間と機械の境界について何度も問いかけるが、結局その答えは出ない。要するに各領域の学問がどんどんと溶け合っているのだ。そんな中で区別を設けようとするのは、凡人としての我々が安心したいからに過ぎないんだろう。系譜による区別に縋っているに過ぎない。

いつか全ての学問領域が何らかの地点でランデブーして合意を得て、いろいろな軋轢(その一例)もなくなればいいなぁ、と思います。そんな夢みたいな世界が果たして存在しうるのか、という問題は別ですが。

皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則」も買ったまま放置されてるなぁ。読まなきゃ。

当時を振り返って

同時積ん読だった本が未だに積ん読なんですけど…。

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉


皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則